“夢”という言葉は、実に良い響きをしている。
そこには期待を見出すこともできるし、幸せを見出すこともできるだろう。無限の可能性と、広大な目標もある。
…そして私は、そこに“憧れ”を見出したのだ。
良い時代に生まれたと思う。
私が小中学生の頃、世はまさにジャンプ黄金期だった(…と、自分で勝手に呼んでいる)
ONE PIECE、NARUTO、BLEACH、テニプリ、それにREBORNや銀魂まで連載していた。格好良く戦う彼等がいて、感情を揺さぶるストーリーに胸が熱くなったり、時には涙したり。良くも悪くも著しく情緒が育ったのは、それら神作品のおかげだろう。
公式の神作品を楽しむと同時に、非公式の神作品にも触れるようになった。
はじめましては小学生の頃。確かNARUTOだったように思う。夢小説という定義を知らぬまま創作サイトにたどり着いてしまったものだから、最初は「あれ?こんなキャラクター漫画に登場していたっけ?」と困惑したものだ。
色々なサイトを訪れ、夢小説という単語を知った。
NARUTOでドアを開き、テニプリでどっぷり浸かり、銀魂で自由を覚えた。
そんな素敵な作品に囲まれ幼心に思ったのは、「私もあんなふうに生きてみたい」「彼等のようになりたい」という願望だ。
強い心を持ちたい。何でも余裕でこなせるようになりたい。前向きになりたい。誰かの役に立ちたい。
現実の自分では成し得ないこと、けれど成してみたいと思うこと。溢れる思いは創作欲というものに変化した。
気付けば理想の“彼女”が出来ていたのだ。…いわゆる、固定夢主というやつである。
スポーツ万能、成績優秀。でもそれは才能に頼るだけじゃなく、実力を裏打ちする努力があってこそ。周りより一枚も二枚も上手(うわて)で、飄々としているが根は優しく、他者を護りきるだけの力がある。
“彼女”は強かった、身も心も。何せ私がそう在りたいという理想が詰まった存在だ。“憧れ”、というものである。
中学校を卒業してすぐの頃、自分のサイトを作った。
それまで頭の中で動いていた“彼女”を可視化することができた。
バスケ部のマネージャーとなって青春を謳歌することもあるし、くのいちとなって戦場を駆けることもある。審神者となって付喪神を御すこともあれば、マスターとなって人理を守ることもある。
“彼女”は何にだって成れたし、何だって成すことができた。死ぬはずの人を身を挺して護ろう。苦しむ人を優しく導こう。その生き様はひどく美しい。
最強主とはちょっと違うと思う。“彼女”の前には常に困難があって、それを乗り越えるための努力を惜しまない。
…素敵だ。生みの親ながらあえてもう一度言わせてほしい。“彼女”は素敵なのだ、本当に。
高校、大学と続けて、ついにはこうして社会人となった今でもサイトを続けている。冒頭のようなキザな文章すら書けるようになった。あと数ヶ月もすれば、開設から10周年を迎えるのだ。…数字で表すとゾッとしてしまう。
この10年の間で、色々なことが変わった。それは私自身のこともでもあるし、周囲のこともだ。
自分が尊敬してやまない夢サイト様(いわば神サイト)は続々と閉鎖している。「お探しのページは見つかりません」「閉鎖しました」の言葉に何度打ちのめされたか分からない。
時間は誰にだって平等に流れるし、終わりのないものは無い。頭では分かっているものの、いざ体感してみると些か物悲しい気持ちにもなってくるというもので…。
自分にはいつ、その終わりが来るのだろう。そう考えないわけではない。サイトが晒されたり、パクリっぽいものを見つけてしまったり…。閉鎖のタイミングはいつでも目の前にあった。
でも私は、それらから目を逸らし、また書き続けてきた。
好きなのだ。羨ましいのだ。惹かれてしまうのだ。“彼女”という存在に。
私にとって夢小説は黒歴史ではない。まさに現在進行形。
“彼女”は今も戦い続けているし、楽しんでいるし、生きている。
胸の中に“彼女”に対する“憧れ”が燻り続ける限り、私はこの活動を続けていきたいと思う。