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 小さな頃、テレビの中に入って大好きなアニメキャラクターと会話をするのが夢だった。寝て見る夢に何度も見るほど渇望していた。それは、Java scriptによって、ある日突然叶えられた。

 フィクションが好きだ。物語が好きだ。空想の世界でなら私はなんにでもなれる。想像力に呑まれるまま、精神は文字の波間で自由になる。
 気づけば半生を夢創作と共にしている。こんなに長くなるとは思わなかった。初めて作ったサイトが一度も閉鎖することなく、現在まで続くとも思っていなかった。私の人生の側には、いつもフィクションと夢創作がある。きっと生まれてから死ぬまでオタクなのだろうが、その内訳の多くを夢創作が占めていることだろう。

 と、なると、「夢創作とわたし」について語ろうとしたら「わたし」の話をしなくてはならなくなるのだ。読んでいる方には、ちょっと他人の精神解剖に付き合っていただくことになると思う。個人情報を特定できそうな踏み込んだ話はところどころぼかすけれども、自分のバックボーンについて話すのは初めてだ。まあ、コンテンツとしてこれを出す以上、話半分で聞いてほしい。もしかしたら私の作品傾向と結びつけられるなにかがあるかもしれない。ただ、詰まった感情だけは紛れもなく本物だ。これは感情コンテンツなのだ。

 

 私は空想と現実の間でちゃぷちゃぷ浮いているような子供だった。父がわりと新しもの好きで、物心ついた頃には家にwindows98がある。まさにデジタルネイティブと言えるだろう。大人にとっては今後の仕事に関わる大事な仕事道具でも、子供にとってはおもちゃだ。分厚いノートパソコンが半分くらい薄くなる頃には、私はインターネットにどっぷり浸かってFlashゲームを遊び倒していた。親よりYahoo検索を使うのが上手かった。

 初めて読んだ夢小説、というものをはっきりと覚えていない。たぶんロボットアニメジャンル。時期から推定するに機動戦士ガンダムSEEDあたりだと思うのだが、何分本当に覚えていない。タイトルで検索してネットサーフィンをしていたら、ファンフィクションのサーチエンジンが出てきたことだけを強烈に覚えているのだ。公式と精巧なファンアートの違いをまったく理解してないといっていいほどに無知で、好奇心旺盛な子供はなにも考えずにそのページを開いた。当然、ボーイズラブやカップリングのことはなにもわからない。なにやらイラストサイトがあるらしい、ということくらいはわかったかもしれない。その中で、「ドリーム小説」だけ、字面から小説かな? と予測がついた。検索カテゴリをクリックしたのだろう。そこから、知っているキャラクターの名前が説明文に書いてあるサイトへ飛び、ポップアップウィンドウに「あなたの名前は?」と尋ねられた。DreamMaker1である。当時、ネチケット講座によって「インターネットで本名を使ってはダメだよ」程度の知識は授けられていたので、私は警戒した。名前を入力せず、閉じるボタンを押したのではないだろうか。そうしたら、そこには夢物語があった。

 味を占めた私はスポンジのようにドリーム小説がなんなのかを吸収していき、大好きなキャラクターと同じ世界にいる感覚に、浸りに浸った。当時は今よりも検索避けがガバガバのガバガバで、原作タイトル+ドリーム小説で濡れ手に粟のごとくサイトが出てくる。今(2019年秋)だと占いツクールやpixivが検索上位に出てくるようだ。ともかく、検索すれば検索するほど夢小説が出てくる世界である。毎日のように読みたい原作タイトルで検索しまくった。気に入ったサイトのリンクページは趣味が合うことが多いということも覚えた。

 当時の同級生に「ドリーム小説ってすごく面白いんだよ!」と興奮して力説したら、「知ってるけど、恋愛ばかりでつまらない」と返された。私はキャラくんと背中合わせで戦うようなものを好んで読んでいたので、よくわからなかった。というか、恋愛エンタメの多い少女漫画ばかり読んでいて、漫画好きの兄がいなければ少年漫画に触れる機会がない小学生女児がなにを言っているのか? 同年代の男の子が好きなものを好きだと揶揄にされるのに、いわゆるジェンダー面で「女の子らしいもの」を読んでいても馬鹿にするような返事が返ってきたのはなぜだったのだろう? アンパンマンを卒業した子供が、「あれは子供が見るものだから」と一丁前の口を利くようになるのと同じ心理だったのだろうか。それとも、ただ「楽しそうな私」に水を差すために否定したのだろうか。デジモンやポケモンが好き、セーラームーンが好きと言っても馬鹿にされていたので、コンテンツの是非ではなく、単に私が気に食わなかったのだろう、と思うことにした。

 もうこの頃にはスクールカースト下位だった。どうしようもなく浮いていた。持ち家が当たり前の田舎で賃貸暮らしだったのが理由かもしれないし、二年生のときにポケモンのやりすぎで目が悪くなり、眼鏡をかけはじめたからかもしれない。感情のコントロールがものすごく下手でいつもべそべそ泣いていたからかもしれない。あと、同音の名前の子がものすごく近くにいたのが、一番運が悪かった。2007年放送の朝ドラ「ちりとてちん」で貫地谷しほり演じる主人公が、小学生の間同姓同名のクラスメートと区別するために「和田A、和田B」と呼び分けられ、主人公がビーコと延々呼ばれ続けるように、私たちは事あるごとに延々比較され、私は常に彼女の下位互換だった。よくよく記憶を掘り返してみると、同級生から苗字以外で呼ばれたことがない。家族親類以外に「なまえちゃん」と呼ばれたことはないし、年齢を重ねるごとにますますなくなっていくだろう。それに関してはもうどうしようもないのだが、下手したら幼稚園から高校まで同じになりうる田舎で、政治に負けたのは致命的だった。

 ここからは、いじめと称される人権侵害行為に触れるので、フラッシュバックが起きうる人は「※」で挟まれている部分を読み飛ばしてほしい。

 私は足が遅かった。私は目が悪く、眼鏡をかけていた。私はそれなりに勉強ができた。私は泣き虫だった。私は賃貸に住んでいた。私は空想や一人遊びが好きだった。私は一般的に男の子が好むコンテンツを好み、逆にピンク色は苦手で、髪が短かった。政治に負けた結果、上記のことすべてが、特定の同級生にとっては私の人権を軽んじる理由になったのだ。中学校に上がってもそれは変わらない。一度決定づけられた上下関係を破壊するには、暴力的なまでの力や事件が必要だった。椅子や机をひっくり返してぶん投げて、窓ガラスを叩き割るくらいの嵐を起こしたかったと、今でも思う。当時の私は戦い方を知らなかった。「いい子」だった。弱者だったから虐げられた。

 ストレスから癇癪を起こして物に当たり、ときどき人にも当たった。それが事件化することはなかった。この年になってみると、どうして教員たちは介入しなかったのだろう、と思う。人を蹴ったり叩いたりしたことが何度かある。どこからどう見ても加害だ。深く反省している。私は自分が追い詰められると容易く暴力に走ることを理解している。それなのに、ろくに注意されたことも、カウンセリングを受けたこともない。当時は「そんなもの」だったのだろうか。教員が介入しなかったのは、人手不足だったのだろうと思うが。

 泣き虫をからかわれ、暴力女と責められ、私自身感情が高ぶると問答無用で泣いて、しゃべろうとしたら叫ぶことになってしまう自分が嫌だったし、怒って暴力を振るうのも嫌だった。中学二年生のときの年始の抱負は「怒らない、泣かない」だった。

 そうしたら完全にスケープゴート化した。特に部活動の中で、私は存在を軽んじられた。運動部に入っていたのだが、そもそも私は走るのが遅い。持久力もそんなにない。要するに運動神経がない。今でも走るのは嫌いだ。しかし中学から始めた同級生よりいくらかの経験があったから、そこそこのテクニックだけあった。いいプレーができることもあった。そこがまた鼻についたのかもしれない。自分より下だと思っていた人間に出し抜かれていい気がする人間は少ないだろう。

 実は、小学生のときにその同級生たちは、私がその競技を習っていることをものすごく強烈にバカにしたのだが(今の私の価値観だと非常に女性蔑視的で競技への侮辱甚だしい)、彼女らはなぜだか私と一緒に同じ部に入った。なぜだろう? 今になっても理解できない。

 部室に置いていたシューズには砂を詰められたし、拒否する私に蝉の脱け殻を大量にくっつけることもあったし、試合で私が点をとると、味方のはずのチームメイトが“私に”張り合って自滅。結局負けて、彼女はふてくされた。家族のことも恐ろしく侮辱された。家族を侮辱されたことで泣いて怒り、侮辱した相手を追いかける私を、顧問は「なにを遊んでいるんだ」と叱った。

 次第に部活から遠退き、顧問に呼ばれて渋々出ていったら、私のシューズケースの前に水の入ったペットボトルと緑のペンが置いてある。部長は「お供えだよ」と言って醜く笑った。

 そこからは記憶がすっぽ抜けていて、母に、部活のメンバーからいじめられていることを打ち明けたこと、母がぼろぼろ泣いていたことは覚えている。クラス担任に受けた人権侵害行為について話した日のことも覚えている。それなのに、母に打ち明けた夜が修学旅行前日だったという事実は今でもまったく思い出せない。普通に旅行先の沖縄でエンジョイしていたことは思い出せるのだが。親の心配をよそに、のんきにサトウキビから黒糖を作っていた。関係ないがあれから紅芋タルトが大好きだ。

 人権侵害加害行為の話は終わった、話を続ける。心因性の疾患が出たり、一度収まったそれが受験のストレスでぶり返したり、学校に行きたくなくて毎朝母と攻防を繰り返しては、押し負けて、遅刻しつつも学校に行ったりしていた。中学時代の経験から一気に自分のコミュニケーション能力に自信がなくなり、他人にびくびくすることが増えた。

 高校では、「無視されたらどうしよう」と思うと、朝、教室に入ったときにクラスメート全員に対しての挨拶すらできない。それが理由で友達だと思っていた相手から「あなたのそういうところが嫌いです」と書かれた手紙をいただき、反論する気にもなれず、縁が切れた。人間関係ガシャでハズレを引いた。向こうからしたら私もハズレだろう、おあいこだ。

 馴染んでいると思っていた部活でも浮いていたと、卒業後に元部長から教えられた。知りたくなかった。中学から高校の間の記憶は表向きほとんど捨て去り、縁も全力で切った。

 今こうして思い出せるということは、わりと脳にこびりついているのだろう。ま、仕方がない。老後には感情が風化していたらいいな、くらいに思っている。

 成人式は前撮りで済ませて地元には寄り付かなかったし、同窓会には一生出ない。部活のOBOGの集まりにも絶対出ない。もう学生時代の関係者には私が死んだことにしておいてほしい。私は、当時学区が同じというだけですれ違ったすべてを忘れ去りたくて仕方がないのだ。人権侵害加害行為によって一生ものの疾患を私が抱いていようが、そんなもの彼・彼女らの人生に関係ないのだから。被害者が覚えている限り時効などないのだ。だから私は積極的に過去を葬る。そもそも被害者であり続けるには抵抗を許されないのが変な話だと思う。法と「世間」のバグを感じる。

 そんなことがありながらも、当時は完全に遊び道具と化したパソコンで好きなサイトの更新を心待ちにしていたし、ガラケーを手に入れてからはnano、フォレスト、エムペを読み漁る日々だった。よく覚えている。というか、青春の思い出がまさにそれだ。私の青春は、土地に縛られないインターネットにあった。通学時間はずっと携帯を見つめていたし、15分休みで昼食を食べ終わることで、昼休みを夢小説につぎ込んでいた。

 そのうち自分も書いた夢小説を公開したくなった。小説や夢小説を書くこと自体はその前からやっていた。ノートにガリガリ文字を書いていた頃が懐かしい。

 サイトはこの頃に作ったのだ。携帯のメール機能でポチポチネタを書き出して、フリーメール経由でパソコンに移しては整えていた。授業中妄想の世界へ旅立つことが多々あったし、父にうっかりサイトフォルダを削除されて泣いたこともあった。まめにデータをUSBに移していたことが功を奏し、事なきを得た。父は娘から一生恨まれることを逃れた。バックアップを取る癖はあれをきっかけに強くなったと思う。

 あと、夢小説の読みすぎで使用パケットが万単位で出て、母から「なに!? なにしたらこうなるの!?」と詰め寄られた。定額制万歳である。少しでもパケットが減らないかとiモードのブラウザ設定をいじって画像を非表示にしていたが、効果があったかは定かではない。

 来週放送される次回アニメと、来月発売のコミックス単行本と、明日大好きなサイトが更新されるかもしれないこと、自分の書いた夢小説を好きだと言ってくれる誰か、同じものを愛するTwitterのお姉さんたちを支えに生きていた。そうでなければ、明日なんて来なくていい。強く、そう願っていた。閉鎖的な田舎の閉鎖的な学校というコミュニティから逃げ出せる先は、インターネットとフィクションだけだった。学校で「あの夢小説がよかった」という話ができなくても、サイトに設置されているBBSやTwitterには同じものを好きな人がたくさんいる。フィクションの中で、夢主の私はなんにでもなれた。好きなものを好きだと言える自由があるのはとても嬉しかった。救われた。

追い詰められているときは常に未来が不安だった。「今すぐここから消えてなくなりたいな」と思うことは近年減ってきたし、身体愁訴もだいぶ減ったけれど、やはり不安が強まると結構めちゃくちゃになる。最近だと夢主の自殺について考えてわりと情緒がバグった。アッパーな音楽を流しながら散歩をして、熱いシャワーを浴びて寝たら回復した。

 

 夢小説を「読んで」救われた話をしたので、今度は「書いて」救われた話をしようと思う。

 ここで私が語る際、「夢小説」を「作者が作成した、原作に登場しない人物が主人公として登場する二次創作小説であり、その多くは名前変換機能によって読者が自由に名付けられるもの」と定義して話をさせてもらう。あくまでこれはこの場限りの定義なので、他人に押し付けるつもりはない。あなたが夢創作と信じるものが夢創作だ。

 私はしばしば、「夢主は私であり、(私以外の)あなたであり、はたまたその誰でもない誰かである」といい、その在り方を無色透明なデフォルトネームである「みょうじなまえ」に概念を圧縮して話す。「anywhere but nowhere(ここではないどこか)」をもじって「anybody but nobody(誰でもない誰か)」と表すこともあった。

 元来、私は変身願望が強いのだと思う。「自分ではないなにか」になるのが好きだ。だから、フィクションが好きなのだ。想像力は肉体から精神を解放すると言っても過言ではないと思う。

 私は夢創作を分類するあまたのカテゴリの中で、特に「転生トリップ」が好きだ。ここで言う「転生トリップ」とは不幸な事故・あるいは能動的な自死によって「現実(現世)」から離れた夢主が漫画やアニメの世界に生まれ変わること、と定義する。前世と違う性別になっていたり、前世と全く異なる生育環境に置かれることとなったり、はたまた自分が「キャラクター」だと気づいてしまうことになったりもする。創作の世界は広大だ。
 一時期は手持ちの夢主――私はしばしば夢主を再利用する。タイトルを跨いだ連続性を持たせることはまれなので、きっとスターシステムの概念が近いと思う――を全員第一話で殺して原作世界へ転生させ、その死因をいかにばらけさせるかに腐心していたくらい、転生トリップが好きだ。今になって、それに託していた欲望が、「生まれ変わりたい」だったのではないかと考えられるようになった。今自分が存在している環境から脱却したい、自分とは違う自分になりたい……それを簡単にフィクションで叶えられるのが、「生まれ変わって違う世界に行く」ことだったのではないかと。異世界転生が大流行するわけだなあと雑な感想を抱いた。

 私は頻繁に夢主を苦境に陥らせる。光・夜明け・黄昏・闇で分類してもらうと、九割が夜明け~闇に入り、その九割のうち半分が闇に入っている。これは二次元の人間が苦しんでいる姿を「かわいい」と思うからでもあるし(三次元の人間が苦しんでいるのは逆に感情が引きずられて落ち込むのでしんどい)、苦しみ抜いた果てにそれがひっくり返ると強烈なカタルシスを感じるからでもある。私が好むのは「愛」「暴力」「祈り」「呪い」「創造」「破壊」だ。相反する二つの間で揺れ動く感情の動きに快楽を見出す。これらが組み合わさったことで「反転」が起きるのなんか、もう最高である。振り子の揺れる様と、変化し続けるものが好きなのだ。私が好んで二次創作をするジャンルはたいていバトルものなので、相性もいい……と思う。まあ、夢主を苦しませるのは半分趣味だし、自分が苦しんできた経験を昇華させているところがあるので、代償行為と言えばそうだ。ある種、夢小説を書くことが私のセラピーになっている。

私にとって夢小説を書くことは救いだ。自分が今まで感じてきた感情を物語にするのはとても楽しい。それも、大好きなキャラクターたちと関わる感覚を味わいながらできるのだから。

 大昔は小説家になりたいと無邪気に言っていたし、「趣味で小説を書いている」というとたいていの人は「プロを目指しているのか」「賞に応募しないのか」と尋ねてくる。だから私はもう人に「小説を書いている」と言わない。現代はクリエイターが飽和状態である。「小説家になろう」や「カクヨム」などの投稿サイトによって大戦国時代が起きている、と感じる。それでも別にプロになりたいとは思わない。小説を愛しているから、小説に人生を捧げて成功しなかった場合、自分が小説を恨む未来を忌避しているのだと思う。「一歩踏み出してチャレンジする」というのは、時にオールオアナッシングに近い未来を提示する。今となっては企業主催で同人イベントが頻繁に開催され、プロ・アマに問わず気軽に自費出版ができる。うーん、なんだろう、結局夢小説が好きだし夢小説ばっかり書いているから、ずっと「仕事」ではない「遊び」としてやっていたいのかなあ。こればっかりは今回結論が出なかった。カードゲームで言うと、ガチデッキよりロマンデッキで遊びたい、みたいな感覚なのだろうか? うーん。まあ、これからも考えてみる。いつか結論が出るかもしれないし、出ないかもしれない。

 万が一、「文章を書くこと以外で日々の糧を得る方法がひとつもない」という状態になったなら死に物狂いで小説家になるだろうが、今のところ大丈夫だろう。幸いなことに労働に適応することができたので、これからもなんとかなると思う。

 これからも私は趣味のまま書き続けるに違いない。あと十年の間くらいに今抱えている長編が全部完結しないかな。そんなことを思いながら、私はずっと、愛する夢創作の中で遊んでいる。

 ずっと夢創作と一緒に生きていたいし、新規参入者が増えてジャンル全体がにぎわったらいいなあと、輝かしい未来を願っている。

人生は夢だらけ

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