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 ――夢創作とは、「夢」である。
 
 と書くと、これを読んでいるあなたに「何を当たり前のことを」と思われるだろうか。夢創作とは「夢」というジャンルの創作形態に基づいて作られた創作物であるのだから、そもそもの前提条件など説明されるまでもない、とも思われるかもしれない。
 しかし私にとって、夢創作とは「夢」だった。
 これはそんな私の、何の変哲もない回想と自己考察、そしてくどったらしい自分語りである。
 
 私が夢と出会ったのは、十代の半ばも過ぎた頃だった。
 小さな頃から本に慣れ親しんで、空想に耽ることが好きだった私は、当時はどちらかと言えば一次創作よりの人間だったように思う。ネット環境がそこまで整っていなかった(使用が制限されていた)こともあって、頭の中でキャラクターを生み出して、自分が作った世界で遊ばせる。そういう一人遊びが得意な子供だった。世にある二次創作のように、読んでいる物語に「自分好みの蛇足」を付けるような楽しみ方なんて、全く知らなかったと言っていい。
 そんな私が二次創作の存在を知ったのは、夢というジャンルに出会う数年前。とある漫画の原作者がウェブ上で小説を公開していることを知って、もしかしたらと別の漫画の作品名を「(作品名) 小説」で検索してしまったことが始まりだった。今考えても本当によくある話だと思う。よくあり過ぎて、折角の機会なのに全く面白みが無い。
 ネットと言ったらヤフーキッズのフラッシュゲームだった私から、明らかに大事故を起こした検索ワードを突っ込まれたヤフージャパンは、それはもういい仕事をしてくれた。大好きな作品の最新刊を首を長くして待っていた子供の前に、ズラリと検索結果を並べてくれやがったのだ。実際にノベライズ本が出版社から出ていたこともあって、それを原作だと勘違いした私は喜んでそれらを読み漁った。「作者は一人なのに何でサイトが複数あったりランキングなんてあるんだろう?」なんて純粋な疑問を抱いたことを覚えている。一定の法則に従って略されるキャラ二人の名前の創作物を知ったのもこの頃だ。後の話になるが、「裏」という一文字に背徳的な響きを覚えたのも。もちろん、盛大に足を絡め取られて沼にはまった。
 そうした大事故から数年、二次創作を嗜みながらすくすく育った私は、立派なオタクになっていた。生まれて初めてオタ友なんて存在も出来て、振り返ってみれば内容はどうあれ我が世の春とそこそこ青春を謳歌していたと思う。
 
 そんな時だ。友人から夢の存在を教えられ、私が「神様になれる方法」を知ったのは。
 
 神様。
 そう、神様だ。大層な字面である。物語ならともかく自分語りに出てくるとちょっと身構えてしまうレベルの。けれどこれは大袈裟ではあってもそんなに大仰な話ではないので、そのまま読み進めてほしい。
 私は、物語には「神様」が居ると思っている。それは神話に出てくる神々のような存在ではなく、物語に対するメタ的な存在、その世界を現実に表出させる存在として。つまりは現実世界における作者のことだ。
 前述したように、私は元は一次創作よりの人間だった。語る相手も居なかったので、世界の成り立ち、キャラの生い立ち、起こる出来事の一切合切を一人で決めて運用しているようなものだった。その世界では、私は「神様」だった。そこに在れと思えば、必要なものは存在し。そうなれと指示すれば、全てはその意図をなぞった。もちろん、考えたキャラクターが生きたように動くこともある。想定した道行きから外れたことだって何度もある。しかしそれすら障害物を配置し、報酬を並べることで、キャラクターの生き様を望む方向へ捻じ曲げることが可能であるのだ。苦しめたい。悲しませたい。絶望させたい。夢を抱かせたい。希望を叶えさせたい。幸せにしたい。勝たせたい。私が描く筋書きに沿って、目を灼くような美しい物語で世界の一つでも救わせてみたい。
 自らが創り出した生命の、その身を形作る物質すら意のままに出来る圧倒的な全能感。小さな小さな、存在すら不確かな世界の持ち主。それを私は便宜上「神様」と呼んでいる。何故なら私が「考え」なければ、数多の命を抱えた世界すら、私の中に存在することが出来ないからだ。
 翻って、二次創作はどうだろうか。二次創作。一番目に続く、二番目の創作物。小説や漫画、動画、歌、と多種多様な表現がある。世に作品は星の数ほどあり、熱意を抱いた人の手によって紡がれ現実に表れ出でるのは一次創作と何ら変わらないはずなのに、そこには絶対的で明確な違いが存在した。
 
 ――その世界にはすでに、「神様」が居る。
 
 二次創作は、「原作」が無ければ成り立たない創作物だ。わざわざ口にするまでも無い当たり前の話だろう。唯一にして絶対の頂点。生まれ出でる万物の起点であり、誰もが目指した終点。私たち二次創作者は「原作」に夢を抱いて筆を執るのだから、その存在は全ての前提と言ってもいい。
 自分ではない「誰か」が描いた、素晴らしい世界の美しい物語。
 紡がれる物語を知らないが故の、感動があるだろう。知ってしまったが故の、祈りが生まれるだろう。可能性を想い、そうして抱かれた愛が、願った未来を描けと私たちの背を押している。
 素晴らしいことだ。とても、素晴らしいことだ。それだけの熱意を抱ける、我がことのように狂ってしまえる物語に出会うことを、私は幸福の内に数えている。
 しかし、読者ではなく創作者としてその世界に相対した時。私は、感動と同時に自らの無力を知る。神ではなく、ちっぽけな手のひらをした只人なのだと目の当たりにさせられる。そしてどうしようもなく矮小で無関係な、部外者に過ぎないと気付くのだ。
 考えてもみてほしい。「原作」は、私が描こうとするその世界は、本来自分ではない「誰か」が紡ぎ出した世界だ。延いては「誰か」――所謂「原作者」という絶対的な「神様」の存在が、高い高い空の向こうの雲の上には鎮座ましましている。
 それの意味するところ。つまりは「原作」において、私に決定権は存在しない、ということだ。世界の成り立ちを決める全能感などとんでもない、その世界においては、風にそよぐキャラクターの髪の靡き方一つにすら、私の意志が反映される余地は無い。
 絶望、と例えるにはいささか空虚で生温い、遠くを眺めるように薄らぼんやりとした無力感。描く指先には眠気のような緩い諦観がまとわりつく。こんなことをしても何かが変わる訳じゃない。私の愛するキャラクターが、本当の物語の中で報われる訳じゃない。世界を写し取った模造品の箱庭で行われる人形劇に過ぎないのに、無駄じゃないのか、と。圧し殺した怒りとともに問い掛けるもう一人の自分を黙殺、あるいは狂気で焼き尽くして形を成すものが、私にとっての二次創作だった。よく言う「正気に返った方が負け」というやつだ。そして私は物語を組み立てるほどによくよく正気に返って敗北した。
 「神様」と同様、大袈裟な例え方をするならば。二次創作者としての私は「原作」という世界を解き明かさんとする「研究者」に近かった。それも、根拠が薄いどころか荒唐無稽な仮説を進んでぶち上げるタイプの。世界の「正解」は「原作者」しか知り得ず、自らの願いは「正解」になり得ない。それを悟りきってもなお夢見た可能性を、世界の端々に目を光らせて拾い集めた、自説を補強する要素でもって尤もらしく論じ上げる。世界を拝借し物語を詐称する詐欺師、の方がピッタリに思えるがそう自虐するのは悲し過ぎるので許してほしい。
 少し話は逸れるが、同人界隈でよく聞く「解釈違い」という言葉。私はこの言葉を、言い得て妙だなと感じることがある。「神様」たる「原作者」がもたらした物語を、受け取り手が各々自分の価値観で噛み砕いた「解釈」が「違う」。その言葉の奥にあるのは「正解は別にある」という共通の認識だ。我こそは、と持ち出した持論で殴り合いながら、その実それが正解でないことを皆が悟っている。たった四文字の短い言葉に、二次創作らしさが詰まっていて面白い。
 
 ――とまあ、傲慢が過ぎる私の二次創作観をくどくど語ったところで、いい加減夢の話に戻ろう。
 
 二次創作の一部に含まれる夢だが、その作品構造は結構異質だと思う。夢とその他の二次創作との違いを問われたなら、まず何よりも「夢主人公」と呼ばれる作者独自のキャラクターの存在が挙げられる。
 自己投影やらオリキャラ派やら、今までに散々学級会を引き起こしてきた諸々を限界まで削ぎ落して端的に表現するのなら、夢は「一次創作キャラクターを用いた二次創作」と言えなくもない。ここでいう一次創作キャラクターが、所謂「夢主人公」または自己投影でいうところの「わたし」である。
 一次創作キャラクターを使って、二次創作をする。「いや結局一次と二次どっちなんですか」と言いたくなる文面だ。描きたい世界が「原作」である以上間違いなく二次創作ではあるのだが、そのためにその世界には存在しないキャラクターとその物語を一から用意する、とすると一次創作の手法に近い。数字にしたら大体一・八次創作とかそこら辺の感覚(オリキャラ派攻男主夢書き当人調べ)。まあ別に夢の位置がどこに在ろうと夢は夢なので気にするような話でもないのだが。
 その「夢主人公」だが、見比べてみると分かる通り、本当に千差万別千変万化の無法地帯だ。夢が「夢」と名付けられればどんな物語でも内包してしまうように、夢主もまた「夢主」と定義付けられれば最早意思があるかも怪しい無機物――生き物でなくたって、物語の主人公になれる。
 創作者それぞれの描きたい物語のために、必要な要素を組み上げその輪郭を形作ったキャラクター。無から生み出された可変の唯一。それが「夢主人公」であり、夢に出会った私が一番感動した概念である。
 それは何故か。
 
 ――私が、「神様」になれるからだ。
 
 「神様」になれないはずの二次創作で、「神様」になれるとはこれ如何に。ついさっき自分で言ったことと矛盾しているように思われるだろう。もちろん、読者兼二次創作者が「原作者」になれるなんてこと天地がひっくり返ったってありやしないので、私が「原作」の「神様」になれることは一生無い。厳然なる事実として、不可能のままである。
 しかし夢であれば、限定的ではあるが、その不可能を夢主という存在が可能にする。
 ここでもう一度、夢と夢主について振り返ってみよう。大体五、六百字くらい前のところだ。
 私はそのくだりで夢を「一次創作キャラクターを用いた二次創作」と表した。それをよっこらしょいと組み替えて夢主に焦点を持ってくれば、夢主は「「原作」世界に付け加えられた一次創作キャラクター」となる。一次創作キャラクターであるので、その生い立ちや能力、性格、人間関係、役割その他諸々を決定付けるのはキャラの創造者たる私だ。
 そう。
 
 私が、全てを決められるのだ。
 
 「原作」のキャラクターだけでは乗り越えられない危機も、夢主に能力を持たせれば好きに戦況を左右出来た。誰が知ることのない世界の秘密も、トリップ夢主なんて裏技を使えば物知りを気取れた。誰かを愛しそうにない推しキャラだって、夢主に設定一つ、物語一つ付け加えるだけで好きな人から恋人に早変わりした。
 毛筋一筋さえままならぬ世界で、夢主という存在においてだけは、私は全知全能の「神様」で在ることが出来た。不可侵の物語に、私という読者が、夢主という存在でもって干渉性を得ることが出来ると知ったのだ。
 私の中で、一気に物語が広がった。
 夢主さえ居れば、私は、「神様」なのだと。矮小なこの手に、掴めるものはあるのだと。抱いた祈りと夢見た未来を託して、やってやるのだと迷いなく彼らへ手を伸ばすことが出来た。
 
 それは、一人の無力な「人間」が救われた瞬間だった。
 箱庭で慰めを得ていた「人間」が、自らの拳で涙を拭った瞬間だった。
 
 だから私は、夢創作が好きだ。
 何にでもなれて、何でも出来て、何をしても、何もしなくたっていい。どこまでも自由だけがある世界を愛している。
 私にとって、夢主は「もう一人の私」だった。自己投影、というには少し遠い、投影された願望の受け皿。似ても似つかなければ性別も、形も、思想も、生きてきた過去だって違うけれど。それは確かに私だった。かつて、心の内側から私を睨み付けていた、もう一人の私。無力を嘆いて怒りとしたそのもう一人は、今は抱いた願いを腕いっぱいに抱え、忙しなく「原作」の世界を駆け回っている。
 
 ここまで書いたものを読み返して、随分な書き様だと笑ってしまった。大袈裟だとは断ったが、少々どころではなく自己が肥大してしまっている。
 
 人は神様にはなれない。
 けれど、神様を気取ることは出来る。
 
 まとめてしまえばたった二行の、そういう話だ。これを読んでいるあなたには、よくもまあ五千字強も付き合っていただけたものだと思う。だがそんな卑屈で締めるのは趣が無いので、ここはひとつ、オタクが大好きなやり方で締めさせてもらおう。Twitterでよく見られる「最終回に第一話のアレ」というやつだ。
 
 では皆々様、お目を拝借。
 
 
 ――夢創作とは。
 ――誰しもが叶え得る「夢」である。
 
 
 

前略、「神様」になれなかった私へ

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