top of page

 あの頃、私は彼の同級生で後輩で先輩だった。

 何を言っているんだ、とは言わせない。だって「そう」だったのだから。

 あの頃私には、好きな漫画があった。きらめくばかりでなく、痛いぐらい切ない青春を扱っていて、精一杯頑張ったりくじけたりする登場人物みんなが愛おしくて、毎週読むのが楽しみで、なのにどこか苦しくて、そんな大変で大切な漫画だった。
 当時の私には、その中でも特に「好きな人」がいて、私は息をするように、その人の「夢小説」を書いていた。

 夢小説とは。きっと企画に参加した他の人も触れてくれるだろうから厳密な定義とするのは差し控えるが、ざっくり言ってしまえば、「作者オリジナル」のキャラクターが新たに追加されているもの(※二次創作の場合)、あるいはその「キャラクター」の名前を読者が自由に設定できるものを指す。
 私の場合は、webでのみ活動していたのもあり常に「名前変換」をつけ、オリジナルのキャラと既存のキャラが色々したりしなかったりする話を「夢小説」として自分のサイトにのせていた。
 私は「あの人」に出会うまで、自分が書く「夢小説」の主人公が一体「誰」かなんて、ほとんど考えもしなかった。名前を変換できる誰か、オリジナルキャラクター。自分の分身のようであり、他人のようであり、今まで一度も会ったことはないけれど、なんだか馴染み深い人、ついでに名前は変換できる、そんなところだ。私は、夢小説を自由な遊び場のように思いつつ、特に他の小説(※一次創作・商業含む)と区別しているつもりもなかった。読む分にも、書く分にも。
 それが「彼」に出会って、一変してしまった。
 久しぶりにハマった、見つけることのできた面白い漫画。きらきらして魅力的なキャラクター。
 はじめは軽い気持ちだった――いつだってそうだった――新ジャンルにハマったから、二次創作しちゃおうかなと。「ネタ」を思いついちゃったから夢小説でも書いちゃおうかなと。そういう軽率で健全な動機だったはずなのに。気がついたらツイッターで原作感想壁打ちアカウントを作っていて。気がついたら作品数が増えていて。止めるはずのサイトは止まっていなくて。壁打ちアカウントで他の人をフォローしていて。拙いながら絵を描いてみたりして。どうしたら「それっぽく」なるか考えていて。彼のことを考えて。彼を「相手」取るに相応しい架空の、どこかいつかには居たかもしれない女の子のことを考えて。漫画での彼を思って。漫画では描かれていない彼を思って。もしかすると描かれないかもしれない「これから先」の彼を思って。ツイートして。リアルでも語らせてもらって。絵を描いて。夢小説を書いて――。
 そうこうするうちに。私はいつしか、彼の夢小説を並々ならぬ思い入れでもって、どこか「祈る」ような気持ちで書いていた。

 ところで、私はもう随分夢小説を読んで書いているはずなのに、「夢小説では何にでもなれる(故に夢のような小説たり得るのだ)」という言説が、どうもしっくり来ない。
 あくまで私個人の「捉え方」の話になるが、夢小説で書かれることは「本当」の「現実」のことではない。「夢」に、「小説」に。「実在しないこと」を暗示する言葉が二つも重なってもいる。けれど翻って、名前からして明らかなのだから、わざわざ「嘘だ、まやかしだ、誤魔化しだ」と言いふらすことでもない、と思う。個人的に。しかし理由は「それだけ」でもなく。
 先に書いた「夢小説の主人公が誰なのか考えもしなかった」にも繋がってくるのだが、私と「既に書かれてしまった言葉たち」は、どうしたって分断されている。書かれてしまった言葉は既に過去のこと、起こってしまったこと、確定してしまったことだ。自分が書いた言葉とて、「現在」や「未来」に適用させることはできない――あくまで私の感覚での話だ。
 ひとつ例示を試みると、私は「日記」を書くことが苦手だ。ここまで自分語りを重ねて今更何をと思われるかもしれないが、私は「あったことをそのままその通り真実だけで文章として書く」ことがとてつもなく苦手だ。まず私は書き言葉で会話や述懐しない。でも口語調のみで文章を長々連ねるのはあまりに気持ち悪い。というか無理。できない。詰み。箇条書きの日記が完成。終了。
 書いて記すとは、誇張を重ねることだ。耳への当たりがいいように、紙への収まりがいいように、真実を削って、付け足して、ねじ曲げて、嘘の話みたいに上手に丸めてしまう。私はたまにそのことが堪えられなくて、大げさに自分の「キャラ」を立てたり、誰にも見せない紙に誰にも見せない言葉で文字を書き殴ったりしている。こっそりとね。
 きれいに丁寧に書かれた言葉たちは、いつだって真実、現実――いま・ここにある私そのものからは、遠く離れている。
 私はどうしても「そこ」を無視はできない。
 「夢小説」で「私自身」が何にでもなれる日は、永遠に来ないのかもしれない。

 ただ、幸運なことに私は「夢見がちな少女」だったので。あるいはいつか・どこかの「私」なら「そういうこと」もあったかも、と思えるのだ。

 物語をたしなんでいるまさにその瞬間、自分は一体「どこ」にいる「誰」なのか。きちんと「自覚」できている人が、はたしてどれほどいるのだろうか。
 常に自分の位置を確かめ続ける物語体験が、没入しているまさにそのとき、できるものだろうか。
 俺は壁! と即断言できる人もいるのだろうが、私には無理だ。めちゃくちゃ面白いものを見たあとは「めちゃくちゃ面白かった!」としか言えないし、主人公に思いを馳せてニコニコした数秒後に、悪役の顛末を想像してメソメソしたりする。主人公の目を通した世界の美しさにワクワクしながら、悪役の目からは地獄にしか見えなかったことを思い出してしんみりしたりする。移り気で、無責任で、自分が楽しむことしか考えていない。フィクションの受け取り手って大体そんなものでは? と密かに疑ってもいたり。書いちゃった。
 物語と相対するとは、いま・ここではない、いつか・どこかを思うことだ。このときばかりは、私は私でなくていいし、「真実」を気負うこともない。だっていま・ここにいないし。
 でも、「それだけ」とも思う。
 「物語を楽しむ」とはつまり、「私はいま・ここにはいない」たったそれだけ。
 「舞台」が違うだけで、そこで起こっていることは、ちゃんと起こっていること、「本当にあった」ことなのだ。

 彼は漫画のキャラクターだ。漫画はフィクションで、本当にあったことじゃなくて、彼はこの世界のどこにもいない。
 でも、私は彼を見た。見るという行為を現実でした。そこに漫画と写真と生の違いは大して無いきっと。とにかく見たのだ。見た。見るを英語で言えばseeだし、seeを和訳すれば会う。そう! 出会った。
 私は彼と会った。

 フィクションは嘘の集まりかもしれない。では、そのフィクションを通して高まった感情も嘘だろうか。
 私はいいえと言いたい。
 それは「こちら」の、いま・ここで起こっているのであり、その感情は間違いなくあなたのものだ。あなたも「嘘」だろうか。きっとそんなことはない。あなたとは何だろうか。じゃあとりあえず言える名前を教えてね。

 書かれてしまった言葉は、私ではない、私のものではない。
 別の誰かなら、受け取ってくれるかもしれない。
 いつか・どこかの私としてなら、あり得たかもしれない。

 もしかすると、書かれてさえいればそれでよくて、誰のものにも、何の為にもならなくてもいいのかもしれない。

 だから私は夢小説を書く。書いた。
 そこに「あった」ことにする為に、誰かを想う為に、祈る為に。

 あの漫画を読み始めた頃、私は彼と同い年ぐらいだった。
 それでも夢小説の主人公は、「私そのもの」では無かったかもしれない。彼が「本当に」クラスメイトだったとして、話しかけられたかなんて分からない。眩しくて目がつぶれるか、舌が張り付くかしたかもしれない。知らんけど。
 あれはあくまで、話しかけることのできた私であり、読んでくれる人だった。そうあってほしかった。そうあればいいなと願った。

 そうやって私は「夢小説での思い出」を綴っていった。

 本当は、「私の彼への想い」は、私ひとりだけが知っていればいいものだったかもしれない。可愛い言い方をすれば、「心の宝箱」に仕舞っておくような。でも、どうせ仕舞ってしまうのなら。人に見せられるぐらいきれいに整えてみたかったし、私は「夢小説」という誰かと遠回しにお喋りする「手段」を、とっくに知ってしまっていた。
 なので存分に使う。是非読んでね。

 あの頃、私は――夢小説を通じて――彼と同じ教室にいた。違う階にいた。同じ授業を受けた。休み時間に眺めるだけだった。部活を冷やかした。言葉を交わした。友達になったり、恋をしたり、フッたりフラれたりした。何も無かった。それで良かった。
 夢であっても、夢であったから本当のことで、私だけのものである一方、読んでくれた人のものでもあり、けれど最早奪われたり汚されたりする不安の無いもので、きっと何でもないこと、とても大切なことなのだ。

夢小説での思い出

bottom of page