ふぁー、さなげやま……。とは、Twitter上におけるワタシの口癖である。現実の世界においては、自制している。オタク同士の集まりであり且つ同じオタクしかいない空間でのみ、そのような自分の一面を曝け出している感じだ。
もう少しいえば、現実の周りにオタクの話をできる知り合いも友達もいない。いたとしても疎遠になった。「だから同人で手慰みやってるのか?」といわれたら、そうかもとしかいえない。もう少し深く突っ込めば、オタクやってる人間は皆どこかになにか不足しているところがあって、そういう空いた穴を推し作品や同人で埋めているのではないだろうか? なにかに感動することは、それにひどい共鳴を受けたからである。なにかに共鳴するということは、その作品の作り手が自分の代わりにそれを叫んでくれたからである……と。受け手は非常に好き勝手いえる。好き勝手に受け取れる。
それを顕著に表したのが『夢創作』という創作の形態かもしれない。『夢創作』に登場する『夢主』というのは多種多様に渡るが、共通するのは「『夢創作』をする作り手の思いを乗せている・担っている」ということだ。推しに愛されたい、推しの苦しむ顔を見たい、推しの最期を見届けたい、推しの生き様を誰かに伝える役になりたい、推しにトドメを刺したいなどetc. 実に様々である。そういう作り手の願望を、既存のキャラクターに担わすことができないときに、便利な存在なのが『夢主』だと思う。「モブ」という顔無しや端役と違うのは、原作キャラクターにとって重要な位置を占めたり、またはそうなる二次創作上におけるオリジナルのキャラクターだからこそ、『夢主』という名称を得たのだと思う。自己投影なり、オリジナル夢主なり。『夢主』という単語は用いられている。
と、最初に自分の『夢創作』に関する考え方を書き出したのは、ここで読む人をふるい落とすためである。ここで「あー、アイツかぁ」とTwitter上でブロックした相手に思い当たる人は、今すぐブラウザバックした方が良い。多分そのブロックした理由になる思いとか考え方としか述べてないんで。
「いや、名前の時点で忌避してるから」といわれたら、あ、そうっすね。としか返せないけど。まぁ相互ブロックなりブロックした相手のことは一旦忘れて、もう少し自己紹介をすると、一度は『夢創作』から遠ざかった身だ。だから刀剣乱舞の審神者界隈であった「審神者は夢主じゃないもん! NLだし!」とかいう騒動も、なんかTwitterやPixivであった夢主騒動もしらない。
『夢創作』っていう行動自体が、とても厄介なものなのだ。五歳とか人間が記憶を保持しかけ始めたときから、ゲームやコミックとか楽しい作品媒体に触れてみろ。才能ある人だったら、その時点で開花するぞ。ついでに私の場合、ゴエモンなんとかっていうゲームのサスケとか女の子のニンジャとかが好きだった。またそのキャラになりきって、ゲームの世界を探索したり冒険したりなど、日中空想した。最古の思い出が「年長者さんのとき、友達をエネミーと見立てて逃げ出した」ということだ。うわぁ、今思い出しても恥ずかしい。企画概要に「過去の自分・夢創作を嘲笑しないこと」が禁止事項にあるが、今だけは見逃して。かなり恥ずかしい。だからジタバタと画面越しで暴れることは許してほしい。恥ずかしい。
多分、『夢創作』がメジャーでなかった頃は、この幼い子どもが行うような「自己投影」が夢創作だと思われてたからではないかと思う。既存の作品にあるキャラクターを用いて、それに自己投影して、あたかも自分がそうであるかのように振る舞う。確かに、自己と他者の境界線があやふやで定まらなかったときは、そういうことをやるかもしれない。けれども自己のアイデンティを探すために、既存のキャラクターや二次創作上のオリジナルキャラクターなどに自己投影をして、作者の考え方を感じたり自分にはない視野を新たに会得しながら、自己と他者の境界線を作るのだ。逆をいえば、多感な思春期を送った人なら、あるんじゃないかなと思う。
芸能人と恋人になる妄想や、好きな人と付き合う妄想をしたりとか。それが現実にいる理想的な人と、作品に登場する理想的な人物との違いだけだ。この現実と作品における理想的な人物の見つけ方は、多感な思春期をどう送ったかによるんじゃないかと思う。今これを見ているように、多感な思春期の頃に読んだ作品に共鳴を受けて、その作品について思いを一日中馳せたりすることがあったとするならば、そうなるかと思う。他にも人間関係に色々と躓きがあったり、社会に出てから挫折を経験したからというのはあるけれど、本当、その辺りは人それぞれだ。
こういう思春期と自己のアイデンティ確立と失敗した経験から自己の傷付いた精神を回復したという意味合いもあるので、そういう創作をした本人以外、嘲笑うことはいけないと思う。その嘲笑の石を投げたものは、同様に自分へも投げてることにもなるから。
とまで書いたけど「じゃぁ論文とかデータ見せろ。証拠、証拠」という声もあるかもしれない。けれどもこれはエッセイで好き勝手書いてるだけなので、心理学とか精神分析学とかのデータベース漁って片っ端から論文読み漁った方が、早いと思う。論文読み漁るの楽しいぞぃ。あー、論文読み漁りたいなぁ、最新の読みたい。データベース漁りたい。
ちょっと願望が漏れ出た。
話を変えよう。
ワタシが一度『夢創作』から退いてもう一度戻ったのは、前述した内容にあった「社会に出てからの挫折」があったからだ。社会に出て働いても『創作』という活動自体はやっていたが、労働の拘束時間・働いても働いても楽にならない仕事・増える仕事量・改善もない職場・精神的苦痛の伴う拘束時間に対する給料の割合など、ストレスがとても大きかった。もう少し実情を曝け出すと「小説と社会人の生活を両立する」という野望があった。あ、ここからちょっとだけ自分自慢というかそういった説明垂れ流すので注意してね!
「小説と社会人の生活を両立する」ということは、小説家を目指す上で当たり前のことだと思ったからだ。小説家は儲からない。芥川賞や太宰治賞を取らない限り、生活は楽にならない。小説家とは苦痛を伴う生活だ。だから二足の草鞋の方がいい──。それらが、当時ネットから集めた情報だ。社会人になる前の大学生の頃、進路を考えてたときに散々探して見つけたものだ。ちなみに大学院に進もうとしたけど、私立のだけで云千万円の資金が必要なので諦めました。チキショウメェ! なので諦めた夢の代わりにもう一つの夢「小説家になろう」ということを叶えようとしました。なので、総合すると「大学院行って、社会に出て、院で勉強しながら社会で働きながらも小説書こう!」というのが実情でした。大学でも同じように学業の傍ら趣味で小説を書いてたんで。まぁ、批評付きの賞に応募してG評価メタクソな評価付きで返されてきたから、拗ねて暫く好きなことしかやらなかったけど。
その際、別の『創作』に打ち込んでいたという話だけど、それがストーリーを作ることだった。ストーリーを作って、それをプレイヤーが遊ぶ。TRPGとかのシナリオとかに近い。もう少し腹の底を暴くと「当時足りなかった部分を、TPRGのストーリー製作を行うことで解明しようとした」ってところだった。この辺りは本当よくて、当時のダメダメだったところも、シナリオというストーリーで誰でも遊ぶという形態になることによって、究明できたかと思う。ダメダメなところが明らかになったからな! ドワッハハ。
では、なぜ今はそれに携わってないのか? 『夢創作』というものに戻ったのか?
答えは簡単である。壊れたからだ。
前述した苦痛のうち、精神的苦痛が限界を迎えた。
この辺りを述べると「おまっwwwその程度で根を上げたのかよwww」といわれそうだが、前述した通り、その辺りの限界値は人それぞれだ。だから、伝えることは「精神が限界を迎えた」それだけだ。経験者にしかわからないことだが、精神が限界を迎えると、本当に今まで張り詰めたものが全て切れる。パチン、と糸が切れたみたいになるのだ。そして今まで必死になって掌に受け止めたものが、全部ポロポロと落ちていく。地位も実績も、我慢して築いてきたものすべてだ。それが面白いほど、掌からすり抜けて、後に残るのは疲弊した自分だけだ。さらにそこが疲弊しきると、面白い。いくらそこから抜け出して、もう一度同じ夢を叶えようとやり直しを願っても、無駄なのだ。その糸を切ったハサミがいつまでも追い駆けてくる。追い駆けてくるから、また同じ苦痛が訪れたとき、同じように張り詰めた糸を切っていく。そしてまた掌から築いたものを擦り切らせて、落としていくのだ。
なのでこの繰り返しをすると、そりゃ死ぬ。人生に諦めがついて自殺をしようかなって考え出して、希死念慮も強くなる。この辺りをずっと、中学生の頃から希死念慮を退け始めたのが、本格的に書き始めた『夢小説』によるものだろう。おかげで社会人になって自殺の名所へ訪れるまで、精神科のお世話になりませんでした。診断したら「重症ですね」って判断下されたけど。あ、これ個人差があるので、ヤバかったらさっさと精神科診察受けるのオススメします。死ぬほどキツイぞ!
その希死念慮から少しだけ抜け出せたのが、同じく庭先で死にかけてカラスに食われるのを待つしかねぇだろうなって思うぬっこを拾ってからなんですがね、今は元気にコタツに入ってぬくぬくしてます(執筆当時十一月十六日。コタツ出してた)。
はぁ。
そのときもまだ別の形態の『創作』界隈にいたんだけど、半ば決別する形で飛び出しました。全部放り投げて、また戻ったら再開するつもりで。けれども、開こうとしたら当時の社会人として生活して受けた苦痛の全てを思い出すから、一度も開けないんだよね。苦痛のパンドラボックス。開けばこの世の災禍が全部飛び出すけど、最後に残るのが生の希望か死かはわからない。二択に一つ。まだ、精神が壊れることをリフレインするパンドラの箱を開くことが、できない。
それで真面目に小説を書いて、「これが書き終わったら死のうか」「ぬっこは、家族が面倒を見てくれそうなほどまで懐いたし、家族も受け入れている。では、死んでもいい。死んでも大丈夫な状態まで整ったな」って。ボーッと死ぬことを考えながら生きてた状態なんですよね。で「書き終わった。死のう」ってときに、寝て覚めたらさなげやま。
もう一度いおう。「『これ書き終わったから死のう。どうやってするかな』って思ったら、さなげやま」
なんで? いやなんで? だって思うよ。そりゃぁ。ある日突然、数年前に見たキルラキルの登場人物であり、当時なにも琴線に触れなかったキャラが、なぜか笑顔で登場。
いや、なんでやねん??????
本当、なんで??????
なんでさなげやま出てきたねん?????????????
で、混乱するうちに「さなげやまの夢見てぇなぁ」と思い、ネット検索。「あれから数年経ってるし、絶対増えとるやろ」と当時のヒットした少ない件数を思い出しながら、専門のランキング開くと、ない。変わってない。数、変わってない。
「いやいや、でも件数増えてなくても作品数は増えとるやろ」と思っても、ない。さなげやま夢、増えてない。全然増えてない。当時愛好していたいぬむたさん夢サイトの方も、なぜか消えてる。消えた。どこいった犬牟田さん。おい、いぬむたさん!!!!!! あとさなげやま!!!!!!!!! ほしいの!!!!!!!!!!!!!!!! ないんですけど!!!!!!!!!?!?!?!?!!
という突然の叫びで、即行でサイト作ってさなげやま夢書き始めてました。
生への願望? いや、違うと思う……。さなげやま夢がほしくて生きてるだけだと思う……。推し……推しがほしい……未だに推しが足りん……。ハァハァ ハァハァ ハァハァ……。
なので、簡単に夢創作への復帰を一言で纏めると「死にたがっても、ある日突然さなげやまが笑顔で現れたので、さなげやまに引き戻された」としかいえません。どうしてさなげやま??? ねぇ???? 確かに今となっては、アイツの笑顔は太陽のようなものだと思うよ??? でもどうして当時心のちんちんにピンと来なかったさなげやまがどうして????? わけわかんない
待って。このエッセイ原稿用紙十四枚超えてるよ! 多分五〇〇〇字超えてるよこのエッセイ!(当時InDesignくんで原稿用紙設定してツラツラと書いていた)
ビックリだよ! さなげやまくんビックリだよ! ビックリだよ!!!!!
ここまで暴露していえることは、一つだけですね。
「推しってすげぇ」そして「『夢創作』の沼深ぇ」です。
なぜ『夢創作』でここまで行けたのか? 心理療法でいう「箱庭療法」と似ているのでは? という学術的見地や疑問が尽きないけど、まぁ、それ抜きでいうと「『夢創作』すげぇ」と「推しすげぇ」の一言で終わるんだよね……。
だから、こういう死の淵から帰還の成功体験を、現実のアーティストやミュージシャンのライブに感銘を受けたり作品に救われたりすると「あぁ、コイツは私(ワタシ)を救ってくれる」とのめりこむんだよね。新興宗教とか宗教と違って、推しは確実にいるし、宗教戦争のように推し解釈に貴賤もない。いや、解釈地獄や戦争は存在するけど、宗教戦争のように肉体同士で殴り合い殺し合いして領地略奪などの戦争には発展しないし。あと、推しは推しでも原作の推しが一番うめぇってのも最大の推しポイントだよね。聖書みたいに後から人の手が加わって変な解釈のまま重版出版される心配もないし、マジで推しは世界平和の架け橋では???? いや解釈戦争とか解釈地獄とかでブロック案件とかミュート案件は存在するけど。
いやマジ推しってすげぇわ……。
え? 「夢創作とわたし」のテーマは? あ、はい『夢創作』ですね。
それはですね、簡単に推しへの興奮を叫べるってことですよね……。推しのこういう横顔みてぇ~~~! とか、推しのこういう顔をみてぇ~~~! とか、二次創作上に作ったキャラクターなり自己投影用なりで読者に投影してもらうなりで、その妄想した推しの横顔なり顔なり行動を共有できるんだぜ……? すごくねぇ……? はぁ~~~~~~推しはとってもかわいいねぇええええええええはぁ~~~~~~!!!!!
ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ……。
『夢創作』っていうのは、妄想・興奮した推しの顔なり行動なり生き様を、自分のフィルターを通してダイレクトに受け手へ伝えるのに役に立つと思うよ。
原作にいるキャラクターのフィルターを通さず、直接受け手である作り手の気持ちを伝えることができるので。
「感想漫画における内容を、物語(ストーリー)仕立てにして主観的にお伝えする」ということもできるかと思う。いや、繰り返しになるけど『夢創作』の形態は人それぞれなので、決まった形はないけど。
決まった形はない。
なので、『夢創作』は作り手・受け手が多様であり多感であるほど、色々な創作の幅を広げると思う。
というのでシメて、推しハァハァに戻ろうと思う。
ごめん、もうさなげやまで覚醒した下りで我慢の限界がきてた。
いやぁ、もう無理無理。ブロックとか知るか。わしゃぁ原作の推しにハァハァして原作にハァハァしてそれで出てきた妄想をフィルターに通したり濾過したりしてハァハァをばらまいたりアーカイブに綴じるんじゃ。はー、戻ろう戻ろう。
あ、ちゃんと原稿はやります。本当、この人大丈夫なのかな。わたし。終わり。